東大叡智会

戦国版文武両道の人藤堂高虎

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2022.5.31

戦国から江戸初期までを生きた32万石伊勢津藩の始祖だ。其の前半生は真に浮き沈みが激しい。1556年近江国の土豪藤堂虎高の子として生まれる。兄の高則とは七歳差だが数え年13歳(今だと12歳)の時には兄より大きかったらしい。幼児期には母親の母乳では足りず数人のお乳を貰って飲んだとの逸話がある。成人してからは6尺2寸(190cm)の当時としては考えられない大柄だった。その後父と同じく浅井長政に仕えるが浅井氏が信長に滅ぼされてからは旧浅井氏の家臣数人に使えた。何れも他の侍との喧嘩等で長続きせず浪人時代に空腹で餅を食い逃げしたというエピソードをがあるのもこの頃だ。これには異説があり餅屋の主人は空腹の高虎に餅と銭を恵んで西の故郷に帰ることを促したらしい。その時のことを忘れず後に大名になってからその餅屋に沢山の礼金を持って訪れている。関ヶ原の戦いにも旗印として三個の餅を使っている。その後紹介されて豊臣秀長(秀吉の弟)に仕えここで大出世し大名となる。秀長は温厚篤実な人物で長生きすれば豊臣政権が長く続いた可能性がある人物である。秀長時代にはそれまでの武一辺倒だったのが主君の影響だろうか築城を学んで文の人となった。今に残る沢山の城を設計した人物として名前が残る。秀長が亡くなるとその後を継いだ甥の秀保に仕えたが秀保が早世し其の死を悲しんで高虎は高野山に出家する。しかし才能を惜しんだ豊臣秀吉が使いを寄越して再び戦場の人となった。関ヶ原の戦いには東軍(徳川方)に属し西軍最強の大谷吉継と戦う。大坂夏の陣では徳川方先方として長宗我部盛親と戦い苦戦し親族等を多く死なせたがこの奮戦により豊臣勢は消耗し徳川方の勝利に多大な貢献をした。1616年死に臨んだ徳川家康は枕元に高虎を呼び「長い間一緒に戦ってくれて感謝に堪えない。ただ一つ残念なのは宗旨が違うために来世で会えないことだ。」と述べた。家康は天台宗であり、高虎は日蓮宗だ。高虎は一旦下がって急ぎ天台宗に改宗して家康に報告すると家康は来世でまた会えると涙を流して感謝したという。家臣に対する接し方も少し異色だ。他家に仕えて上手くいかなかった場合再び家臣として登用し家臣の殉死も禁止した。高虎がなくなった時遺体を清めていた家臣達は体に無数の鉄砲傷や刀傷指の欠損があり爪が剥がれ如何に激しい戦いの日々だったかを偲んだとういう。後陣に控えて巧みに戦うタイプの大名でなく先頭に立って部下を鼓舞する「俺について来い。」タイプだったのだろう。それでいて千利休とも親しく交わる文化人であり築城の名人であった。正に戦国版文武両道の人である。未だに記憶にあたらしいのは傍系ご子孫にあたる有名参考書「漢文研究法」で知られる藤堂明保元東大教授のお話を予備校時代に講演で聞いたことだ。藤堂先生も大柄な方だった。

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