2022.6.22
勉強が出来る出来ないかは持って生まれた才能=地頭なのかそれとも努力の成果なのかは保護者にとっては最大かつ永遠のテーマだろう。ある人は言うだろう。「誰々ちゃんは元々頭いいから合格したのよ。」またある人は言うかもしれない。「いくら頑張っても才能の限界はあるよな。」あなたも日常にこの様な言葉を聞いたことがあるだろう。私もよく聞く言葉だ。果たしてこれらの言葉は正しいのか、正しくないのか気になるところだ。筆者は長年の経験からこのどちらかに限定するのは無理のあるいささか短絡的な考えのような気がしている。その間に一番隠されているのは「工夫して努力する才能だろう。」つまり自分に合った勉強法を自分で工夫して見つける才能だ。決して単純な頭の良さ=地頭ではないし勿論ひたすら闇雲に努力することでもない。どうやったら短い時間に能率を上げ理解から記憶へと繋げる力を養うかだ。ご父兄がよく言われる自分に合った勉強法を確立できるかだろう。しかし厄介なことに御父兄が考えているように勉強の仕方は簡単には見つからない。まずもって個人差が大きいのだ。暗記中心が合っている子、暗記より理解中心が合っている子と千差万別なのだ。独学で才能を発揮する子、教師に教わると理解が早い子、教える側の教師もこの様な子供の適性を見つけるアンテナを常にしっかり張り巡らせなければならない。暗記が苦手な子に過度に暗記を強いれば良い結果は得られない。しかしある程度の暗記は必要だ。本人が無理やり強制されていると感じないで勉強させるのはなかなかに難しい。ではこの努力することを快感に感じる気持ちはどこから来るのだろう。恐らく勉強する習慣を日常の生活にしてしまうことだと思う。ご飯を食べる如く、夜寝る如く、お風呂に入る如く、そして歯を磨く如く、生活の一部にしてしまうのだ。人は毎日やる習慣に対しては、あまり気持ちが抵抗しないのだ。勉強勉強と構えてやれば苦行だが、いつもの習慣なら苦ではない。日常の習慣は一つ一つの時間が長くない。決して長く纏めて勉強しようとせず、少しずつちょこちょこでいいのだ。そのためにはまずは朝型生活に心がけてほしい。夜遅くに一人で黙々と勉強すれば、孤独感がまし疲れだけが残る。その割に意外に能率は上がっていないのだ。短時間で能率が一番上がるのは朝だ。夜早く休んだのに朝起きることが出来ない人は本当に疲れているのだから、まずはゆっくり休んでほしい。心身回復してからでも間に合うのだ。
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