東大叡智会

鎌倉殿の13人クライマックス

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2022.8.12

NHK大河ドラマ鎌倉殿の13人は佳境である承久の乱に向かって進んでいる。承久の乱前の鎌倉幕府は東国を中心として諸国に守護、地頭を設置して警察権徴税権を掌握していた。一方で西国への支配は充分ではなく、依然として朝廷の力は強く、幕府と朝廷の二元政治の状態にあった。上皇の院宣で討伐対象として挙げていたのは義時であったが、北条家は鎌倉幕府全体への攻撃であるとして東国御家人たちを動員することに成功。京都に攻め上って勝利した。乱後、後鳥羽上皇は隠岐に配流され、鎌倉幕府は朝廷を監視する六波羅探題を京都に置いた。以降、明治維新まで600年以上に及ぶ朝廷に対する武家政権の優位を決定づけた政変となった、この戦いの前に北条政子が御家人たちに対して鎌倉創設以来の頼朝の恩顧を訴え、「讒言に基づいた理不尽な義時追討の綸旨を出してこの鎌倉を滅ぼそうとしている上皇方をいち早く討伐して、実朝の遺業を引き継いでゆく」よう命じたことで、動揺は鎮まった。『承久記』には、政子が館の庭先にまで溢れるばかりの御家人たちを前に涙ながらの大演説を行ったことで彼らの心が動かされ、義時を中心に鎌倉武士を結集させることに成功したという記述がある。一方、『吾妻鏡』では、御家人の前に進み出た政子の傍らで安達景盛が政子の声明文を代読したと記されている。「皆心を一にして奉るべし。これ最期の詞なり。故右大將軍朝敵を征罰し、關東を草創してより以降、官位と云ひ俸祿と云ひ、其の恩既に山嶽よりも高く、溟渤よりも深し。報謝の志これ淺からんや。而るに今逆臣の讒に依り非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康・胤義等を討取り三代將軍の遺蹟を全うすべし。但し院中に參らんと慾する者は、只今申し切るべし」(源頼朝公が朝敵の平家を征伐し、鎌倉幕府を草創して以降、官位といい、俸禄といい、その恩はすでに山より高く、海よりも深いのです。恩に報いろうという志が浅くはないか。しかるに今、逆臣の讒言によって、道義に反した綸旨りんじ(天子の命令)がくだされた名を惜しむ者は、早く藤原秀康・三浦胤義(讒言した逆臣)らを討ち取り、三代将軍の眠るこの鎌倉を守りなさい)後鳥羽上皇は強大化する鎌倉幕府の存在をおもしろく思っておらず、院政が敷かれていたころのような朝廷の権力を取り戻したいと考えていた。承久の乱では、後鳥羽上皇側、鎌倉幕府側それぞれに正義があった。後鳥羽上皇にとって、日本を統治すべき朝廷がないがしろにされることは、許されることではない。一方で鎌倉幕府、北条義時、北条政子からすれば、自身らが築いた政権や所領を脅かし、平和を乱す後鳥羽上皇近臣を排除することが正義だった。源家、北条家に従う御家人たちの安全を守ることは彼らの使命だ。結果的には承久の乱では鎌倉幕府が勝利し、後鳥羽上皇が敗北したため、後鳥羽上皇は隠岐に流され寂しい晩年を送った。
後に鎌倉幕府の中枢によって編纂された歴史書「吾妻鏡」では後鳥羽上皇側の「反乱」として扱われている。一方で、天皇中心の歴史観が広まった明治・大正時代には鎌倉幕府・北条義時こそが天皇家に反逆した逆臣であり、後鳥羽上皇はその被害者であるとされることが主流であった。

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