東大叡智会

その時まさにニュートンの目の前でりんごは落ちた

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2023.1.5

サーアイザック ニュートン(Sir) Isaac Newton、は、1643年1月4日、英国のウールスソープという寒村に 同名のアイザック・ニュートンを父、ハナ・アスキューを母として未熟児として生まれた。出生時父はすでに他界していた。実母はアイザックが3歳のときに近隣の牧師のバーナバス・スミスと再婚してアイザックの元を離れ、アイザックは祖母に養育されることになった。此のことが後世ニュートンの人生に微妙な精神的影響を与えることになる。親は息子アイザックの才能に気付いていなかったが、親類がそれに気がついてくれたことで道がひらけた。もし其の親戚がいないかニュートンの才能に気づかなければ、数学や物理学の進歩は大きく遅れて、ニュートン自身も好きでない農作業をしながら一生を悶々と過ごしたことだろう。そして私たちは偉大な数学者にして物理学者のニュートンを知らずに生きることになったのだろう。だが真実は違う。幸運なことに「ニュートン」は存在し、彼のおかげで、私たちは重力の存在を知り、彼の微分積分の発見で数学的な新しい境地を見ることが出来たのだ。勿論これらの発見や進歩は彼以外の誰かが遅かれ早かれ成し遂げたのだろうが。彼はまたエピソード、かなりユニークなそれの持ち主だった。 しばしばぼけーっとする癖があり、「卵と間違えて懐中時計を茹でた」、「ズボンをはいていないことに気がつかず、そのまま役所に出勤した」、「馬がつながれていない手綱を引いて歩いていた」、「夕食を忘れるのはしょっちゅうだった」(召使いはそれを期待していた)などの逸話がある。恐らく極端に集中して考える間は他の事が出来ない人だったのだ。また研究成果を発表するのに異常なほど臆病だった。微分積分の研究を公的に発表せずに私的な書簡で親しい人だけに知らせた為に、ドイツのライプニッツとどちらが先に研究成果をあげたのか、後世に論争を巻き起こした。14歳のときに、継父がなくなり農園を継ぐこととなり、母親によって学校をやめさせられたが、農作業に向いてはいない事には母は気づいた。悩んだ母は親戚に相談して、其のアドバイスに従い再び学校に戻った。19歳位でトリニテイカレッジで学び始めた。しかし経済的事情だろうか、正式な学生でなく小間使をしながら学費食費を免除してもらう特殊な身分だった。内気な彼は他の学生と馴染めなかった。しかしその後恩師となる人物にめぐり逢い奨学金を得て無事優秀な成績で卒業し学士となった。25歳のときパンデミック(ペストの大流行)となり、大学は閉鎖され故郷に18ヶ月ほど帰ることになった。この期間のことは「驚異の諸年」とも、「創造的休暇」とも呼ばれている。その期間に彼の所謂「三大業績」が成された。即ち「微積分学」「光、分光の研究」「万有引力の発想」だ。有名なリンゴのエピソードは此の帰省中の話だ。後に彼は秘書に疑問は「りんごがなぜ落ちるのか」ではなく、「リンゴは落ちるのに、月は何故落ちないのか」だったと語っている。此の話にも実は諸説ありお互いに微妙に異なっている。此の文は別枠で原文を載せたい。実は数学や科学の研究はあくまでも彼の一部にすぎない。ニュートンの死後残された蔵書1,624冊のうち、数学・自然学・天文学関連の本は259冊で16パーセントであるのに対して、神学・哲学関連は518冊で32パーセントである。彼が本当に情熱を注いだのは寧ろ哲学や神学であったかもしれない。錬金術(他の元素から金を作る)にも没頭している。本当に物事を深く考えることが好きな彼は色々な分野に興味を持った多彩な人であった。ニュートンは森羅万象を修めようと多岐にわたり興味に従って研究をしたのだ。学問にはまず知的好奇心ありきだろう。ニュートンの有名な言葉を添えたい「私は時折、普通よりはすべすべした小石や奇麗な貝殻を見つけて子供のように夢中になってきたけれど、私の目の前には依然として真理の大海が発見されずに横たわっていた」。

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