東大叡智会

福沢諭吉の偉いところ

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2023.1.10

青年福沢は身長173cm体重70kgの明治初期においてはかなりな大柄だった。不思議なことに西郷も大久保も当時としては例外的に大柄だ。幕末に渡米したときは日本人男性の中で例外的に米国女性にもてたらしい。生まれた中津藩は門閥制度が厳しく(総ての藩がというわけでない。少なからず能力主義の藩もあった)出世することはほぼ不可能だった。知力体力ともに優れた諭吉には耐え難い事だっただろう。父親は立派な学者だったが、門閥制度の犠牲者として世に出て大きな仕事をなすことが叶わなかった。後に諭吉は後に「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」と述べている。まさに明治維新は彼には素晴らしい時代だったわけだ。最初蘭学を学んだが、オランダ語がもはや世界語で無いことに気づき、さっさと英語に切り替えている。彼は生涯一学者として生きることを強く望んだ。政治には関わらざる訳にはいかなかっただろうが、基本はあくまで一学者、もっと言えば一学徒であることを好んだ。晩年にも午前に3時間から4時間、午後に2時間は勉強し、また居合や米炊きも続け、最期まで無造作な老書生といった風の生活を送ったと言われている。テレビドラマ「若き血に燃ゆる〜福沢諭吉と明治の群像」では奇しくも慶応出身の中村雅俊が諭吉役を演じたが、確か戊辰戦争中に中村のセリフで「外では野蛮人が戦ってお互いに殺し合いをしている。私たちはここで文明の基礎となる学問を学ぶのだ」というのがあった。其の小さな学び舎が今日の慶應義塾の始まりだ。慶應義塾の歴史は東京大学より長い。文明のもとは学問であるという強い信念は諭吉翁の生涯変わらぬ信念だった。彼の「学問の勧め」は最終的には300万部以上売れたとされ、当時の日本の人口が3000万人程であったから実に全国民の10人に1人が買った計算になる今では考えられない超大ベストセラーだった。どんなに多くの青年が此の書に刺激を受けて、学び始めたことだろうか。想像もつかない程だ。諭吉はまた気取らない性格であった。「福翁自伝」の中でお酒を飲みすぎて、やってしまった愉快すぎる失敗談を率直に述べている。亡くなったときには本人の希望で遺族は全ての献花を断っている。例外は盟友大隈重信が涙ながらに持ってきた花だった。明治政府から再三爵位の授与、即ち貴族になる話があったようだが断っている。其の生涯は思想的に独立した一個人が公に頼らず距離を保って強く生きた感動の生涯だった。

 

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