東大叡智会

一葉 鴎外 漱石

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2025.7.16

五千円札でおなじみの樋口一葉は近代明治期の女性職業作家第一号である。即ち一葉の前に作家活動で自立して生活した女性は存在していないということだ。女性の地位が保証されていない時代に、この事がどの位、大変なのかは現代の我々には想像し難い。一葉の生まれは1872年5月2日‐亡くなったのは1896年11月23日であるから、享年わずか24歳である。人は若くして亡くなった悲劇のヒロイン、ヒーローが好きだ。早逝は一葉だけではない。正岡子規34歳、宮沢賢治37歳、石川啄木26歳と枚挙にいとまがない。天は才能と長生の二物を与えないことが多い。しかし其の中でも一葉の24歳はとりわけ早逝である。死因はお決まりの肺結核であった。1943年に米国でストレプトマイシンが(通称ストマイ)が開発されるまで、肺結核は日本の国民病であった。一葉も例外でなく、24歳で肺結核で亡くなっているが、数々の名作を生み出した期間はわずか1年2ヶ月程であり、即ち1894年12月から1896年2月までの「奇跡の14ヶ月」の期間である。この間に「大つごもり」「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」といった名作を生み出している。

一葉が明治文学界のその名を知られ始めた頃、文学界のリーダーであった森鴎外は一葉の作品を激賞した。鴎外だけでなく幸田露伴も激賞している。一葉が当時の不治の病である肺結核に感染した時には、文学界のリーダーの一人であった斎藤緑雨の依頼で、森鴎外は著名な医師青山胤通(東大医学部以来の鴎外の親友、明治天皇の侍医も務めた)を診断に向かわせている。(貧しい一葉には高名な医師に診断してもらう費用が無かった)診断は進行が早く既に手遅れとの事であった。さぞかし鴎外は落胆したであろう。発見が早ければ、特効薬はなくとも、完治は無理にせよ、数年の間は生きて作家活動が出来ていたかもしれない。一葉の葬儀に対し、鴎外は陸軍一等軍医正の正装で軍馬に乗り、棺の後に従う希望を樋口家に問うたが、貧しく正式な葬儀が出来ないために、丁寧に断られている。鴎外は美しく才能がある女性が好きであった。一葉の才能を心から惜しんだのだ。

もう一つ興味ふかい話があるのだが、一葉の父親と夏目漱石の父親は明治維新後職場を同じくしていた時期があるのだ。漱石の父直克の部下が一葉の父則義とういう関係で一時期漱石の長兄大介と一葉が婚約するという関係になった。しかし則義が度々直克に借金を申し入れたために,破談となっている。もしそのまま婚姻になっていれば、一葉は漱石の義理の姉ということになるのだ。世間は意外に狭い。ここにおいて一葉、鴎外、漱石が繋がるのも興味深いことだ。遙か百数数十年の前の話である。貧しく若くして死んだ一葉が現代の彼女に対する評価を知れば、どんな思いを抱くであろうか、こちらは尚更に興味深いのではないだろうか。

 

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