2025.12.5
昭和の日中戦争(15年戦争)は通常戦争のたどる軌跡とは違う展開であった。通常,戦争は、国家間の対立が深まる→宣戦布告→戦争→終戦の単純な構造とはやや違う展開であった。詳しくお知りになりたい方は加藤陽子東大教授の労作「それでも日本人は戦争を選んだ」に詳しいので,是非読まれる事をお勧めしたい。そこでは単純に「陸軍が無理やり戦争を嫌がる国民を戦争に導いた」のでもなく、また「海軍が全て戦争反対、陸軍は全て好戦的」でもなく、「国民の多くとマスコミはは軍部に無理やり戦争へと引きずり込まれた」でもない事がわかる。その中で日中戦争は日米戦争とやや趣が異なる面があることに気づくであろう。日中戦争は別名「十五年戦争」とも呼ばれる。戦争の期間が長いのだ。その間ずっと激しい戦闘が続いたかといえば、必ずしもそうではない。ウクライナ‐ロシア戦争とは様相が異なる。日中戦争は局部戦が散発的に行われ、そのたびに日中双方の首脳が、相手方を非難したり、双方の首脳が戦争を限定しようとしたりの努力が行われたりした。その中で、多くの交渉がもたれたのだ。国民党政権の一部が分派して汪兆銘のもとに親日政権が出来たりした。今日中国を治めている中国共産党グループは一貫して、誤解を恐れずに言えば「脇役」であった。もし日本が中国にあれほど深入りしなければ、今日の共産党統治は恐らくなかったであろう。当時の共産党はかなり限定的な力しか保有していなかったのだ。日本軍国主義対中国国民党の構図は中国共産党にとってまさに千載一遇のチャンスであった。今回の高市首相の発言は十五年戦争当時の近衛文麿首相の「蒋介石を相手にせず」を想起させる。近衛首相にもう少しの粘り強い交渉力や、軍部に妥協しない勇気等何かがあれば、日本のゆく道はあの悲惨な結末に至ることはなかったかもしれない。しか進出人は都合の悪いことは忘れるように出来ているらしい。第一次世界大戦の終わった日にほとんどの人は「もう二度とこのような悲惨な戦いはしない」と固く決心したであろう。戦争は長期的に見れば決して利益を生じない。日中間は十五年の戦いのために100年以上の禍根を残すことは間違いないであろう。その最初の戦いは局部戦であり、その後に双方が冷静になり、話し合う機会は十分にあった。驚くべきことに日本側はほぼ全面的に、満洲国を承認してもらう代わりに、中国本土から全面撤兵する案を提示したこともあるのだ。しかし、お互いが妥協を模索する中で、双方の過激派の言動がエスカレートし、そこにマスコミが同調,煽り、つまるところ当初中立であった米国をも中国側に追い立ててしまったのである。これすなわち原因は言葉である。戦後始まった日中間の国交樹立は多くの人の地道な努力の上に、当時の田中首相の果断な判断と周恩来首相の優れた指導力により成立した。双方に多くの反対派が存在していたのだ。しかし二人の首相の英断ばかりではなく、その前に多くの有名無名の地道な交渉があったのだ。しかし数十年の努力の成果も一つの言葉で崩れることがある。いまや日中間の相互依存は想像以上に大きい。中国にとって日本企業の進出は欠かせない。日本にとって中国人観光客のもたらす利益は欠かせない。そこに従事するのもお互いの国民である。この間も日中両国に存在し、穏健に話し合いたい良識派の人達は多く存在している。今がまさに禍根を将来に残さない試練の時である。
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