2026.3.12
筆者が小泉八雲を知ったのは、高校1年生か、中学3年生辺りである。当時の英語雑誌か何かで、八雲の名作「怪談」、あの耳なし芳一が書かれた「怪談」である。付録でテキスト付きの英文のテープが入っており、その話の面白さと英文の完璧さ、美しさに聞き惚れ、おおかた暗唱したほどだ。10数年ほど前に仕事で松江を訪れる機会があったが、時間の関係で記念館前に行ったが、時間が迫り入館を断念した。早い機会に松江再訪を果たしたいものだ。ハーンが好んだ通り美しい町であった。
ご存知、NHK朝ドラでの話だ。主人公小泉八雲=ラフガテイオ、ハーン(ドラマではレフガタ、ヘブン)の話である。ハーンは英国人の父とギリシャ人の母との間に、1850年当時英国領のギリシャ、レフガタ島に生まれた。(レフガタが名前の由来レフガタ→ラフガテイオ)ラフガテイオはmidle nameであり、first nameではない。因みにfirst nameはPatrick パトリックである。父親はアイルランド系の英国軍医であり、ギリシャ赴任中に、ハーンの母親と知り合い結婚している。その後両親は父親が原因(他の女性と暮らし始めた)で不仲となり離婚,母親はハーンを置いて、ギリシャに帰国している。ハーンは4歳にして両親に捨てられる事になった。父方の大叔母に養育され、教育を受けるが、17歳の時に、この大叔母が破産してしまう。また16歳の時に遊具が目に当たり、左目が失明、右目も極端な近視であったので、本を読むのにも苦労したものと推測される。左目は混濁していたので、残された写真は全て右側から取られたものである。その後19歳で米国ニューヨークに渡る。ほぼ一文無しの渡航であり、生活に大変苦労したが、不思議なことに人生の節目節目に助けてくれる人が現れるのが、この人の特徴だ。その後シンシナテイに移り、生来の文筆の才能を活かし新聞社でジャーナリストになる。ここで黒人と白人の混血女性と結婚するが、当時白人と黒人の結婚は禁止されていたので、その事が原因で職を失ってしまう。27歳でニューオーリンズに移り、マイナリテイの文化に興味を持ち書籍を出版。この間、ニューオーリンズで万国博覧会があり、日本の文化に触れ興味を持つ。1990年、40歳の年バンクーバーを出発し、、新聞社の特派員、通信員として横浜に上陸する。その後雇用先の新聞社と契約で揉め退社。松江中学の英語教師を探していた、籠手田知事との縁で、採用される。そのご小泉ときと知り合い結婚、3男1女恵まれ、日本に帰化。小泉八雲となる。赴任先は松江から熊本、神戸時代を挟み。東大の英語教師となる。1904年(明治38年)54歳東京の自宅で没する。
【色々なエピソード】
※1996年(明治29年)に日本国籍を取得し「小泉八雲」に改名。「八雲」は、一時期島根県松江市に在住していたことから、八雲の名前は本人が決めたものではなく、セツの養祖父・稲垣万右衛門が『古事記』にある日本最古の和歌からとって名付けたという。
※2016年11月、1896年(明治29年)当時の英国領事の書簡を元にした研究論文が発表され、イギリスと日本の二重国籍だった可能性が高いことが示唆されている。※ 母がアラブ人の血も混じっていたらしく、のちに八雲自身、家族や友人に向かって「自分には半分東洋人の血が流れているから、日本の文化に接してもこれを肌で感じ取ることができる」と自慢していた。父母を通じて、地球上の東西と南北の血が自分の中に流れているという自覚が、八雲の生涯と文学を特徴づけている。
八雲は生涯を通じてアイルランドからフランス、米国、西インド諸島、日本と放浪を続けた。かつ、いかなる土地にあっても人間は根底において同一であることを疑わなかった。生まれながらのコスモポリタンであった。
※ハーンの日本語はあまり上手くはなく、妻のセツの英語も初級であったが、不思議とコミュニューケーション「ヘルンさん言葉」で取れた。
※身長は155~157cmで、松本健一『神の罠 : 浅野和三郎、近代知性の悲劇』には「たゞ見る身材五尺ばかりの小丈夫」とあり、旅館の主夫妻が「5尺2、3寸位」と証言している。足のサイズは23.5、松江時代にこしらえた特注の足袋が小泉八雲記念館に遺されている。
※ 松江を好み、ニューヨーク、パリ、ロンドン、東京は好まなかった。都会を好まなかった。東京は3年以上は暮らせないという言葉もあるくらいだ。故郷ギリシャに似た島を好んだ。
※東京大学の英語教師を退職させられた後の、後任はあの夏目漱石だが、ハーンの学生間の人気は高く、解任のときは激しい留任運動が起きた。漱石への排斥運動が起きた位である。
※川田順(教え子)高名な歌人であり実業家
※妻セツの家族も扶養していた大家族で高収入にも関わらず、蓄えは余りなかったが、死後印税等で家族は経済的苦労はなかった。
※生い立ちと育ちが影響し、必ずしも全ての人と良好関係を維持出来るタイプの人間ではなかったが(ケンカ別れになった人も多い)、深く彼と付き合った人は彼の文才、作家、ジャーナリストとしての才能に惚れ込んだ。
※ どの学校でも英語教師として、人気であった。教師を超えた文才の賜物である。
※ 当時の旧制中学(現在の高校)は、旧制高校(現在の大学教養部)が存在しない地域では、最高教育機関であり、その地方の将来を担うエリート養成機関であった。その英語教師には地方の近代化を図るアドバイザー的な役割が課せられた。
筆者が小泉八雲を知ったのは、高校1年生か、中学3年生辺りである。当時の英語雑誌か何かで、八雲の名作「怪談」、あの耳なし芳一が書かれた「怪談」である。付録でテキスト付きの英文のテープが入っており、その話の面白さと英文の完璧さ、美しさに聞き惚れ、おおかた暗唱したほどだ。10数年ほど前に仕事で松江を訪れる機会があったが、時間の関係で記念館前に行ったが、時間が迫り入館を断念した。早い機会に松江再訪を果たしたいものだ。ハーンが好んだ通り美しい町であった。
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