2022.12.25
戦争という極限状態は人間の本質を図らずも映し出してしまうものだ。第二次世界大戦、日本では日米戦争日中戦争の間に日本の多くの芸術家は戦争に協力するか反対するか(基本的に反対することはほぼ不可能だったが)で難しい立場におかれた人が多い。協力しなければ原稿用紙や画材を止められ発表の場所(検閲があった)を失う恐れもあった。まずは幾つかのパターンに分けてみた。
1比較的積極的に協力 菊池寛(小説家、日本文学界のボス的存在、日本文学報告会議長、斎藤茂吉(歌人)高村光太郎(詩人)横光利一(小説家)レオナール藤田(日本名藤田嗣治、画家)
2戦争に賛成せず沈黙か消極的協力。 谷崎潤一郎(作家)永井荷風(作家)
3その他 ユニークなのは太宰治である。戦時中太宰は創作全盛期であった。12月8日というあまり知られていない作品があるが、日常の中に微妙だが戦争にあまり賛成していない心情が描かれている。
此の中で画家レオナルド藤田について述べてみたい。日本人で最も西洋或いは世界的に知られた画家である。藤田は大正期にパリに遊学して(父は陸軍軍医総監、森鴎外の後任)フランス画壇の寵児となる。その当時のフランスでは大変な有名人であり、藤田の周りには画家のピカソ モディリアーニ 詩人作家ジャン・コクトーなどが集まった。藤田はその一挙手一投足がマスコミの注目を浴びるスターだった。その後日本に帰国し軍部の依頼を受け戦争画を描いた。 戦後の価値観の変化に伴い、藤田は戦争に積極的に協力した(軍国主義に協力した)との批判を受けた。ある人はその急先鋒で、「藤田は軍部に阿諛した茶坊主で、美術家全体の面汚しであり、当分画業を謹慎すべきである」という文を新聞に載せた。 藤田はこれに反論し、「画家は本来、自由愛好家であり、自分は国民的義務を果たしたに過ぎない」と述べている。藤田の戦争画中、特に名高いものは「アッツ島玉砕」「サイパン島同胞臣節を全うす」だ。藤田の描いた《アッツ島玉砕》は、全国を巡回展示し、「玉砕を美化する」という軍部のプロパガンダの一翼を担った。「玉砕」という言葉は此の頃「全滅」を美化するために考えられた言葉である。筆者自身は此の絵を何回も画集で見たが少なくとも「戦争賛美」作品には見えなかった。寧ろ戦争の悲惨さが伝わる「反戦的な」絵や,少なくとも西洋画で言うところの歴史画の様に見えた。その後に生まれた人間が過去の時代の人を批判するのは慎重であるべきだと筆者は思う。藤田は戦争賛美の絵を描いた画家として戦後批判されフランスに逃れ,フランスに帰化しフランス人「レオナール藤田」として生涯を全うした。日本を離れる際に「絵描きは絵だけ描いて下さい。仲間喧嘩をしないで下さい。日本画壇は早く国際水準に到達して下さい」という言葉を残した。彼の最後の作品は平和に満ちた礼拝堂の設計とその内部の作品だった。正式名称は「平和の聖母礼拝堂」だが、通常、「フジタ礼拝堂」と呼ばれている。藤田は礼拝堂の設計だけでなく、壁画、ステンドグラス、金属装飾・彫刻、庭などのすべてを設計して平和への祈りとした。はたして戦争画を描いた贖罪の意味もあったのだろうか。数奇な人生を生きた人であった。
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