2022.2.26
谷川先生は私の記憶が正しければ確か誠一というお名前だった。父の出身地である長崎の田舎で医師として働いておられたがなにぶん私が小学生の頃だから随分前の話だ。其の頃私はしばしば熱を出して先生にお世話になった。既に医師としては半ば引退されている様子で自宅の一間に診療用具を置かれて昔からの患者だけを診ておられた。父は半ば冗談で注射器が錆びてないかなどと冗談を言っていた。先生は引退されたあとも老人ホームに半ばボランティアの様な形で時々通っておられた。医業でお金を儲けようとしない人だった。ある時父の誕生日に先生から短歌付きの日本酒を頂いた。父が40代の頃で先生は其の頃既に80歳位にはなられていたように思う、何故短歌を作られるのかというと著名な歌人斎藤茂吉の影響らしかった。茂吉は東京帝国大学医学部を卒業後に長崎大学医学部教授として来崎し熱烈な歓迎を受けたとの記録が当時の新聞にある。谷川先生は長崎大学医学部のご出身だ。茂吉が長崎に赴任したのは1917年茂吉は34歳だった。谷川先生の年齢を考えると恐らく医学部在学中に教授として茂吉の講義を受けたに違いない。歌人としての茂吉の名声は既に確立していたので当時の長崎に一大短歌ブームが訪れたのだろう。其の中で歌を咏む習慣を身につけられたのではないだろうか。先生は私が東京で学んでいる間に亡くなられた。父から聞いたところでは死の直前枕元に正座され奥様に感謝の言葉を述べられたとのことだ。昔はこんな実のある日本人も沢山いたのだと思うこの頃だ。
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