2023.8.26
第1回甲子園大会(正確には甲子園球場は未完成だが)は大正4年に朝日新聞社の主催で始まった。第7回(大正7年)には当時の満州と朝鮮の代表が地域代表として参加し始めた。第9回(大正い12年)には台湾の代表が参加し始めた。今から見れば随分国際的だが、当時は日本の統治下の地域だ。此等の地域は1940年大会までは参加していた様だ。当時の3“地方”は本土からの移住者も多く、朝鮮人や台湾人(当時は日本人だが)などといった現地人と日本人の混成チームが多かった。しかし実力的に本土と大きな開きがあったわけではなく、通算成績で台湾と満洲は3割7分以上、朝鮮も2割8分以上という記録を残している。ザックリいえば長崎県や石川県、秋田県などと同等レベルだ。第7回大会に出場した大連商業(満洲)は何とベスト4に進出した。釜山商業(朝鮮)もベスト8だ。後者が負けた相手は、その年の優勝校だった。一方、第9回大会で初登場した台湾。台北一中は惜しくも初戦(1回戦シードで2回戦から)で敗退した。とりわけ有名なのは第17回大会に台湾代表として参加し準優勝した嘉義農林高校だ。これは「KANO1931海の向こうの甲子園」として映画化されて見られた方も多いだろう。
筆者は甲子園大会は再び国際化されるべきだと考えている。近隣所諸国で野球が盛んな韓国台湾に加えて、北米と中南米、欧州代表からなる真の高校野球世界一を争う大会にして欲しいと心から願う。最近は甲子園大会に憧れる韓国球児台湾球児米国球児も多いと聞く。実現は朝日新聞社の決断次第だろう。政治的意図で反対する人もいるかも知れないが、朝日新聞社はこれに怯まず実現して欲しい。海外にはこれだけの規模と歴史を持つ高校生の野球大会は無いのだから。
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