2023.8.11
川路 聖謨(かわじ としあきら)は、幕末期の優秀な幕臣である。号は敬斎。幼少期は極度の貧困の中、両親の極めて厳格な教育を受けて育った。
- 日課は超人的である。午前2時に起きて執筆、読書をし、夜が白んでくると庭に出て、刀の素振りと槍のすごきを平均2千回行う。その後来客の相手をし、午前10時に江戸城に登城、午後5時まで勤務する(この時代の役人の勤務は普通10時から2時まで)。家に戻ると既に客が待ち構えているので、一緒に晩飯を食べながら話を聞く。酒は飲んだが1合までで、それ以上は絶対に飲まない。客の応接が済むのが午後10時頃で、それからまた執筆、読書をして12時に寝る。睡眠時間はわずか2時間、気が張っていたため平気だったと言われている。
- 日露交渉の応接でロシア側は川路の人柄に魅せられて、その肖像画を書こう(写真をとろう)とするが、それを聞いて川路はロシア人に「私のような醜男を日本人の顔の代表と思われては困る」と発言し、彼らを笑わせた。この時、プチャーチンに随行していたイワン、ゴンチャロフは次のように書いている。
- 「川路を私達はみな気に入っていた。(中略)川路は非常に聡明であった。彼は私たちを反駁する巧妙な弁論をもって知性を閃かせたものの、それでもこの人を尊敬しないわけにはゆかなかった。彼の一言一句、一瞥、それに物腰までが、すべて良識と、機知と、炯眼(けいがん)と、練達を顕していた。明知はどこへ行っても同じである。
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- プチャーチンは帰国後に「日本の川路という官僚は、ヨーロッパでも珍しいほどのウィットと知性を備えた人物であった」と書いている。彼は日本人以上に当時の最先進国であるヨーロッパでも立派に通用する教養人であった。同時にユウモアを解する人であった。
- 小説家の山田風太郎はその著書『人間臨終図巻』において次のような言葉を「彼(注:川路)は要職を歴任したとはいうものの、別に閣老に列したわけでもなく、かつ生涯柔軟諧謔の性格を失わなかったのに、みごとに幕府と武士道に殉じたのである。徳川武士の最後の花ともいうべき凄絶な死に方であった。
- 幕府官僚として貧困対策に努力した。
- 「天津神に 背くもよかり 蕨つみ飢えにし人の 昔思へは」という辞世の句を残し、横に「徳川家譜代之陪臣頑民斎川路聖謨」と自書している。
- 勤勉正直は世界基準の道徳だ。勤勉=hard workは世界共通の概念である。
- 随分前にどんな人が好きかと尋ねられた人が「少し古風な人」と答えた。此の言葉には幾分かの真実が有るように思う聖漠ほど此の言葉が似合う人は少ないだろう。