2024.11.18
☆古代 ①朝廷で蘇我馬子を誅する時に、他の貴族は馬子を恐れ臆したが、中大兄皇子(天智天皇)は自ら刀を抜いた。王が直接刀を抜き武力を示したのは古代の特徴だろう。
☆近世 ①藤堂高虎と家康の別れ 高虎は外様大名ではあるが、家康にとり戦友の如き存在であった。家康臨終に際し、親藩、譜代大名並に臨終に立ち会った。家康は宗旨が違う(家康は天台宗、高虎は日蓮宗)ので、来世で高虎に会えないと嘆いた。その場で高虎は天台宗に改宗し、家康に来世もお仕えしますと誓った。
②高虎の遺言 藤堂家を離れ他家に仕えたものも、理屈が合えば再び藤堂家に仕えて良いとした。自分が死んだ時の殉死も禁止した。全て合理的な優れた判断だ。
④信玄、謙信、秀吉に会った僧の話 この僧は信玄公や謙信公がもっと長命で、子孫を残したならばきっと天下を取っただろうという人々に、「いや私はそうは思わない」と反論している。信玄や謙信に会ったときは、御前に出るだけで緊張し何も考えられず、言えず、この人の為に何かをしよう、働こうとは思われなかった。秀吉に会ったときは,彼が「もっと近くに寄れ。腹は減っていないか?俺の茶漬けを一緒に食べるか?」という具合に人の距離を一気に近づける力が秀吉にあり、この人の為に働こうと思わせるものがあった。と述べている。「人たらし」と言われる秀吉の人間的魅力を表している。
☆近代 大久保利通は新政府に不満の士族に襲われ悲劇的最後を迎えた。その時彼の懐には西郷の手紙が入っていた。繰り返し読んだものと思われる。同郷の西郷と大久保には意見の相違を超えて同じ薩摩人としての絆は確かに有ったと思われる。
陸軍大将の乃木希典は清廉潔白の人であった。自分の二人の息子を区別せず戦いの前線に送った。その結果息子二人は戦死してしまった。乃木は部下を死なせて懺悔する人だったので、息子たちに「よくぞ死んでくれた」と話しかけた。
昭和天皇ご文庫暮らし 戦後長く昭和天皇は吹上御殿が出来るまで,16年も地下室のようなご文庫と呼ばれる地下室に暮らしていた。
こんな場所に陛下を住まわせてはおけない、と侍従は御所の新造を提言しますが、陛下は「世の中には住む家の無い人もあるのに、私にはこれだけのものがあるのだから」とあっさり却下。では、せめて修理を…と、調査してみれば天井裏からなんとドラム缶2本半もの水が出てきたのです。これはいかんと再三にわたり陛下に新造を奏上するも、やはり陛下の答えはNOであった。
そして日本は戦後の混乱期を乗り越え、高度経済成長期を迎えた。昭和34年(1959年)皇太子殿下(今の上皇)御成婚で世間はミッチー・ブームに沸いたが、そのときですらなおまだ両陛下は御文庫に住んでいた。結局それからさらに2年、終戦から丸16年経て漸く吹上御殿に移った。戦時中も食事は極めて質素であった。これは学習院時代に乃木希典院長(校長)の薫陶を受けたからである。
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