東大叡智会

追悼 長嶋茂雄

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2025.6.11

皆さんの幼少期の最も最初の記憶は何だろうか?どこかで遊んでいるところだろうか?それとも家のペットと楽しく遊んでいることだろうか?筆者の最も古い記憶は、祖父の家の庭にあった池に鯉がいて、月に一回位鯉の職人さんが来て鯉の世話を焼いてくれたことであり、鯉が死んだときに祖父が食べようと言ったが、恐らく家族の拒否があったのか、食べた記憶はないことだ。しかし最大かつ鮮明な記憶はテレビが普及し始めた時に、野球の試合を見て、私がいつも「長嶋、長嶋」と言うと、祖父がこの選手は長島じゃないよと言ったことだ。幼児にはすべての野球選手は長嶋に見えたのだ。逆算すればこのときの長嶋はまだ立教大学の学生であった。確か神宮球場の最終試合で、六大学のホームラン新記録8本目を打ったのだ。これもなんとなく覚えているので、恐らく地方でもこの試合はNHKで放送されたと思われる。今と違い神宮球場は広く簡単にホームランは打てなかった。当時は投高打低、飛ばないボールの時代に作った新記録である。長い間地方ではプロ野球と言えば巨人戦であった。ジャイアンツの試合しか放送されないのだから、子どもたちは、いや大人までも日本全国ジャイアンツファンであった。

当然の様にスポーツの選択肢は田舎の子にはなかった。小学校2年生で私は近所の野球チームに入った。体が小さかったので、1年生のときはチームに入れて貰えなかったのだ。学校のソフトボール投げでとんでもない記録を作ったのはこの頃だ。5ー6年生の選手を上回ったのだ。後に江川卓投手は、小さいときの石投げで肩が強くなったと述べているが、私も石投げが得意であった。ゲームなんてない時代、子供の娯楽は外で走り回ることであった。ある意味健全な生活であったが、勉強は勿論不得意だった。小学校時代の夢は将来プロ野球選手になることであったが、この夢は多くの小学生男子の共通の夢でもあった。チームではどの子も3塁手をやりたがる。3塁なら長嶋の真似ができるからだ。数年したら1塁手も人気が出た。世界のホームラン王、王貞治人気であった。監督コーチには必ずゴロは体の正面で取れと教わるが、子供は必ずかっこいい長嶋のランニングスローを真似したいのだ。この時長嶋がプロ野球に入らなかったら、今の日本のプロ野球はこれほどの人気を得なかったであろう事は絶対に間違いないであろう。

地方での大学受験浪人を切り上げて、東京の予備校へと進んだ私は予備校で沢山の友人が出来、自由な浪人生活を満喫した。週末は模擬試験を受けてそのまま後楽園球場へと向かった。ジャンボ席は入場料が確か500円であった。長嶋の引退試合は球場で見た。入場していたのだ。落合元中日監督もこの時球場にいたらしい。私と大打者落合の人生は少しだけ交差したのだ。その後、大宮市に住んだ時、たまたま大宮公園をジョギングしていて、高校野球の関東大会を見た。大宮球場は佐倉一高時代に長嶋がバックスクリーンにホームランを打ち、一躍、彼の名前を有名にした球場である。私がその時たまたま見た試合は埼玉の進学校である春日部高校が関東大会へ歩みを進めた試合であった。その試合で春日部の三番バッターが大ホームランをかっ飛ばした。慶応からヤクルトに進んだ青島である。春日部高校の大応援団は甲子園出場を目指して大変な数であった。校歌が感動的であった。

地方住まいなので長嶋の献花台へは行けないが、人並み以上に長嶋に対する思いは強い。人は永遠には生きられないが、ヒーローは心のなかで永遠に不滅である。

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