2026.4.10
昨年自宅の近くのいつも通る道路脇に農業教室なる看板を見つけた。以前から自宅の庭やベランダにプランターを置いて、素人でも育てられる、野菜、ミニトマト、ニラ、ネギ、おくらなどを育ててみたが、どうも上手くいかない。多少は収穫出来るのだが、毎日取り立てを朝食の食卓に並べるみたいなレベルにはいかないのだ。今風に言えばコスパが悪いのだ。労力の割に上手く育ってくれない。日当たりのせいなのか、それとも水やりが悪いのか、土が悪いのか原因究明は難しかった。暫く諦めて休んでいるうちにその看板を偶然見つけて、看板の主である野菜の師匠(本物のお百姓さん)にお会いすることになった。丁寧な説明と謙虚なお人柄である点何よりも農業に対する知識と誇りが安心出来た要因だ。畑は実によく手入れがしてあり、土が素晴らしく、日当たりも申し分無い。昨年の9月辺りから教室に入れて頂くことに成り、週1回位のペースで通うことになった。というと如何にも色々自力で何かやったことの様であるが、実際は出席すれば、月数千円程の月謝で。種、道具等は無料、種の撒き方さえ、師匠が実際にこの種は何cmの深さに此の位の間隔を空けてなど丁寧に指導して頂けるシステムである。土は元々素晴らしく耕してあり、畝やマルチは既に作ってあり、種を撒く事と水やり、雑草取り位しかやることは無いのだ。実際楽しいのは、畑の集会所のテントにお邪魔しての、師匠や他の会員さんとのと会話であった。広々とした畑の中でのお茶をしながらの会話はまさに,所謂「晴耕雨読」である。晴れれば畑に出かけ、雨が降れば読書。この理想は古代の中国から来たものであろう。東洋的価値観ともいうべきものかもしれない。自分が食べる物を自分で育てる。人間の本来あるべき姿なのだろうが、実際には私たちが一番必要な主食の「米穀類」は素人には難しい。多大な世話が必要で簡単ではない。せめて野菜くらいは自活したい。今朝も自前のレタスや豆、じゃがいもを頂きながら、思い出すのは徒然草第52段、「仁和寺にある法師」の言葉である。「何事にも先達はあらまほしきことなり」要は一人で知ったかぶりをせず謙虚に先人に教えを請うという話である。この謙虚さ、素直さは一生のものである。この辺は勉強にも共通する所はある。筆者の「持論は料理と農業は頭が必要」である。
武者小路実篤も宮沢賢治も自ら農を志した。何だか足が地についた一生である。都会ではなく生きる場所としての、地方、土と繋がっている場所、里山、筆者の家族も少しだけ都会が苦手であり、沖縄移住に際して那覇や都市化した地域は避けた。全国最大の村ここ読谷村は少しゆったり暮らせて幸福度が個人的には高い。
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