東大叡智会

世界三大数学者(異論ありでしょうが)

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2022.7.11

私達凡人は世界何大何々が好きだ。今回は選び方に異論があることを承知で世界三大数学者の話をしたい。

1アルキメデス   古代ギリシャの数学者にして発明家。当時の学問の中心地であったアレクサンドリアに学んだのち、生地に戻り、研究にいそしんだ。入浴中に浮力に関するアルキメデスの原理を発見し、「エウレーカ、エウレーカ (発見した、発見した) 」と叫んだという話や、てこの原理を発見し「私に立つ場所を与えるなら、地球をも動かそう」と言ったという話などはあまりにも有名である。幾何学においても、円周率の値が 220/70と 223/71の間にあることを示し、また曲線で囲まれた図形や曲面の面積を「取り尽くしの方法」を用いて計算した。軍事技術においても優れ、ギリシャを守るために自ら考案した反射鏡や起重機を使ってローマ軍を苦しめ、故郷シラクーザはローマ軍の攻撃に3年間もちこたえることができたという。しかし、ついに故郷が陥落したとき、ローマ兵によって殺害された。

2ニュートン  農家に生れ恵まれない少年時代をおくったのち(早くに実父をなくした。)、叔父の助力でケンブリッジ大学トリニティ・カレッジを卒業 (1665) 。1661年に叔父であるウィリアム・アスキューが学んでいたトリニティ・カレッジに入学した。入学当初は「サブサイザー(sub-sizar)」として仮に受け入れられ、1か月後に「サイザー(sizar)」として正式に受け入れられた。これは講師の小間使いとして食事を運んだり使い走りをする代わりに、授業料や食費を免除されるという身分であった。元来は母ニュートンに農園を継がせるつもりだった。もしそうなっていたら今日微分積分をニュートンの名前で私たちは学んでいないし、引力の研究も少し遅れていただろう。大多数の学生は「コモナー(commoner)」という自費で学費を払う者たちで、自分がサイザーという身分であったことや、自分の家柄のこともあり、同級生と打ち解けなかったという。パンデミックの時に故郷に帰りこの間に二項定理、微分法の発見、光と色の性質に関する研究、反射望遠鏡の発明のほか、万有引力の法則の基本的着想を得たといわれる。67年ケンブリッジに戻り、師 I.バローを継いでルーカス数学教授に就任 (69) 。ロイヤル・ソサイヤテイ会員 (72) 。国会議員 (88) 。造幣局長官 (99) をつとめ、大学を辞める (1701) 。1705年ナイトの称号を授かる。彼の才能にもし誰も気づかないままだったらと思うと近代科学にはとてつもない損失だっただろう。

3ガウス  この人はより数学に重きを置いた人だ。例えば、彼がちょうど3歳になった頃に、父親の給料の計算の誤りを指摘したと言われている。5歳になった時には、父親の代わりに口座を定期的にチェックしていた。小学校入学7歳位で先生が出したお題1から100迄の整数を全て足したらいくつになるのかを数秒で解いた(等差数列の和)。等沢山のエピソードつきの天才である。父親はレンガ職人の親方だった。両親はガウスが父の跡を継ぐことを望んだ。彼の尋常ならざる天才ぶりに気づいた教師がギムナジウム(大学で学ぶための進学校)に進む奨学金や其の才能を惜しんだ貴族が経済的援助をしてくれた。その後大学に進んだが母親はガウスが本当に学問で生きていけるのかまだ心配していた。ある時大学の友人である貴族の子弟ががガウスの家に遊びに来た。母親は其の友人にガウスは本当に数学で成功できるのか心配して尋ねた。其の友人が「間違いなく彼は天才でありヨーロッパ最高の数学者になります。」と話したとき、母は泣き崩れたという話がある。真に親はありがたい。同時に天才を捨ててしまわなかった当時のヨーロッパ社会の成熟は素晴らしいと思う。ガウスにとっては研究で美しい結果を得ることが最大の報酬であり、他人の認知を必要としなかった。ニュートン、ガウスは共に育ちのせいだろうか少し内向的な面があり研究成果を公にしなかったりしたので後年発見された時代を超越した研究論文が後から発見されるなどの共通点がある。二人ともごく普通の家庭に天才として生まれた。(遺伝子のいたずら気まぐれだろうか?)私たちはこの人達に感謝しながら数学を学ぶべきだろう。同時に私達がそう簡単に数学が得意にならないのは当然なのだ。こんな天才が考えた事を数百年遅れて学んでいるのだから、悲観するには及ばない。

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