2022.11.16
1969年東京大学はその長い歴史において唯一の入試中止となった。受験予定の生徒のうち多くが京大東工大一橋大東北大等に」志望校を変えた。その影響は極めて大きく日比谷、西、戸山、東京教育大学附属駒場(現・筑波大学附属駒場)、新宿、麻布、開成、湘南の8校(68年の東大合格者上位校)から、69年に京都大に合格したのは213人。前年から178人も増えている。東京大と京都大の受験生が、多く京都大に集まったことで「超」難関校になってしまい、例年ならば合格できた受験生が涙をのんでいると、予備校が分析していた。確か京大の合格最低点は前年の合格最高点を越えた筈だ。影響が大きかったのはこれまでの京都大合格者上位常連校である。大阪府立北野は105人(68年)から86人(69年)に減少した。天王寺は102人から67人、大手前にいたっては81人から42人と、およそ半減した。「東京の進学競争の激烈さ」は東北大にも襲いかかった。東北大合格者数では、仙台一が166人(68年)から115人(69年)と50人以上も減ってしまった。仙台二も88人から62人と、26人も減っている。その代わりと言っていいものなのか、都立西は3人から29人、日比谷は1人から28人、新宿は4人から27人と増やした。68年の東京大合格者数ランキング1位は灘132人、日比谷は131人で2位だった。当然、69年入試ではこの2校から京都大合格者を大量に出している。灘は23人(68年)から75人(69年)、日比谷は9人からなんと42人に増えたのだ。当時、灘には東京大受験予定者が約150人おり、このうち108人が京大に志望校を変えた。一方、69年入試のなかには、なにがなんでも東京大に入りたい、という受験生がいた。 69年秋になると、70年東大入試に備えて、出身高校に成績書を請求する者が見られた。東大を諦め切れず再受験した者たちだ。東京大入試中止によって、いまでは考えられないような大学受験ドラマが、半世紀前に起こったのだ。しかしそう出来ない人たちもいた。すでに浪人して1969年東大入試に備えていた浪人生達だ。二浪する勇気がないものは諦めて京大等に志望校を変えざるを得なかったのだ。皮肉なことにこの年は人在豊富だ。作家高橋源一郎氏は東大志望だったが京大に切り替えが上手くいかず横国大に入学した。経済学者竹中平蔵氏は入試が中止になり一橋大に入学した。ラグビー日本代表となり代表監督も務めた宿沢広郎氏は東大志望だったが早稲田大政経に入学した。東大は後に日本代表としてプレーするラガーマンを失ったのだ。数学者森重文氏は京大志望に変わり数学のノーベル賞であるフィリーズ賞を受賞した。この様な入試中止の愚挙を二度と繰り返してはいけない。受験生はそれぞれ色々な悩みを抱えながら頑張っている。大人が子供たちの伸び行く芽を摘む社会はまともではない。
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