東大叡智会

八雲が帝大を首になった経緯

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2026.3.19

 

 明治36年(1903年)1月、八雲のもとに「3月末をもって解雇する」という一方的な書面が届きました。という八雲に関する文章が書かれているが、実際には、彼はそういう形でいわゆる「首」にはならなかった。ハーンが東大(当時は帝大。1897年京都帝国大学(現・京都大学)の設立に伴い東京帝国大学に改称)の講師になったのは、1896年(明治29年)である。NHK朝ドラ「ばけばけ」では、はハーンと周りの人々は「帝大」と呼んでいるが、正確にはこの時点では、「東京帝国大学」である。東大側は当時の文科大学長(今で言えば東大文学部学部長)の井上哲次郎がハーンに、給与の改定を申し出ている。採用時の条件は月給400円(現在の価値で言えば、恐らく数百万円)であり、当時の東大総長と同額。身分的には、講師であった事を考えると異例の高額であったと言えよう。当時の文科省側は経費削減のために、帰化しているハーンには日本人と同じ待遇でという訳だ。当時は大学の教員がいわゆる「お雇い外国人」から留学帰りの日本人に切り替えが進む状況であった。学部長の井上は苦慮して、ハーンに給料の削減と、授業数の削減で講師を続けるように、説得した様である。もう一つの問題は「長期休暇」の申請であろう。教授職と違い、講師にはその資格が無いので、取得できないが、ハーンは申請している。こういう複雑な経緯があったが、ハーンがこの待遇に満足出来なかったのが、実際の事情かと思われる。他の理由としてはハーンに「古い人間」との評価を与え、大学の近代化を計ろうとしたことだ。ハーンは大学側のこの態度に満足できなかった。ハーンの後任はよく知られているように夏目漱石であるが、後任として赴任した夏目漱石は、当初「八雲を追い出した男」として学生たちからボイコットを受けるなどの洗礼を浴びることになった。歌人川田順は「ハーンのいない文科にいる価値無し」として、法科に転部している。帝大ではハーンの文学講義は「魂を揺さぶる名講義」として知られていた。その後ハーンは早稲田大学に、招聘されるも数カ月で亡くなっている。

 

 

 

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