東大叡智会

神君家康公の三大危機

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2023.2.16

徳川家康公には人生において少なくとも三回の重大な生命上の危機があった。通常家康公の三大危機は1一向宗との戦い、2本能寺の変時の堺からの帰還(伊賀越え)、3三方ケ原の戦いだが、ここでは一向宗との戦いに変えて大阪夏の陣時の真田幸村に本陣を急襲された時を挙げたい。まずは2の伊賀越である。本能寺の変時に家康は堺見物をしていたのだがその時、「信長死す」の急報が伝えられた。このまま京都経由で岡崎に帰れば帰途明智軍に討たれてしまう。そこで紀伊山中を超えて海に出る経路が選ばれたようだ。其の正確な経路は諸説あるが徳川の主だった武将達も同行していたので家康本人の危機でもありまた徳川氏の危機でもあったわけだ。この危機に対して家康は京都に行って、同盟者信長に殉じて「追腹」をしようと考えたが本多忠勝等の重臣に説得されて、思い留まっている。家康公は意外に短気だったのだろうか?大阪夏の陣でも真田幸村の本陣襲撃に危うく切腹しそうになり、此のときは藤堂高虎隊等の奮戦で危機を脱している。伊賀越に活躍したのは一般には服部半蔵配下の忍者たちということになっているが真偽は確かでない。3の三方ケ原の戦いは家康公若年の戦いとして有名だ。1543年生まれの家康公はこの歳30歳だった。通説では領内を抵抗無しで通せば武田軍は徳川軍と戦わないと、事前に武田方より通知があったが若い家康は若気の至りで圧倒的に優勢な武田軍に無謀な勝ち目のない戦いを挑んだとある。事実は不明だが戦国大名として戦わずに済ませれば、大名としての威信に関わり、家臣の離反も予想されたのかもしれない。有名なのはその後に絵師を呼んで描かせたという、所謂「徳川家康三方ヶ原戦役画像」だ。家康が此の惨めな敗戦を一生忘れないために、反省材料として必ず傍らにおいていたという有名な絵である。此の絵はいささか其の由来にはっきりしない点があり、これも真偽不明だが不思議な説得感がある。全体に見れば織田信長と豊臣秀吉の両政権が長く続かなかったのに対し、徳川政権が250年以上に渡り安泰だったのは、優れた家臣団の信頼が厚かった点だ。今風に言えば創業者の家康が作ったシステムは社員に強く信頼され、長く其の元で働きたい、働いていれば必ず報いられるという安心感があったからだろう。再三の危機は其のたびに忠節な家臣達に助けられ危機を脱し、更に大名家として発展した。家康公は「災い転じて福となす」を地で行った人だ。

 

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