東大叡智会

究極の文武両道 内村祐之

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2024.6.11

プロ野球第3代コミッショナー内村祐之はかの有名な無教会派クリスチャン内村鑑三の長男として生まれた。鑑三の立派な体格を受け継いだせいだろうか、東大在学中に左投手として活躍し、獨逸学協会学校中等部から第一高等学校東京帝国大学に進み名投手として活躍。学生野球界では特に一高時代に、早稲田慶應義塾を久しぶりに撃破するなど名だたる左腕投手として名を馳せた。1918年には15年ぶりの全国制覇を果たした。後に阪神の監督を務めた名将藤本定男(早稲田出身、巨人阪神両方の監督を務めた)は左の名投手として内村を江夏豊金田正一などと共に挙げている。その後1939年から1943年までは東大野球部長、1943年六大学野球連盟理事長として戦時下の学生野球の対応に尽力する。。選手引退後は東大医学部に学び、精神科医として活躍し、東大医学部名誉教授で退官した。その間も野球界に多大な貢献をなした。最も有名なのは「ドジャース戦法」を翻訳し、送りバント、守備を最大限に活かして守り勝つ野球でナリーグの覇権を争っていたドジャースが駆使する当時の最新の野球戦術であったドジャース戦法を日本に紹介した事だろう。その後日本球界では犠打やヒットエンドランで得点を取り、守りでは失点を防ぐためにバントシフトを敷く際に外野手もカバーに走るというようなチームプレーが戦法の骨子となる。投手や守備に関する記述が最初の半分以上を占めているのが特徴である。ドジャース戦法は日本の野球界に、強い野球は守りの野球であるという真理をもたらした。また精神科医研究者として大学の精神医学講座の充実を計り、もう一方では野球界に貢献し野球の殿堂入りを果たしている。人は二刀流をこなせるという稀有な例だろう。

 

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